第二次世界大戦後、アメリカは圧倒的な経済力と軍事力を背景に、世界の政治・経済秩序を主導する存在となった。この時代の国際秩序は、しばしば「パックス・アメリカーナ」、すなわち「アメリカによる平和」と呼ばれる。

しかし、アメリカが世界を主導することと、世界全体が平和で安定することは同じではない。国際連合や国際通貨基金(IMF)などの国際機関が整備され、人権や民主主義を尊重する理念が広がる一方で、米ソ冷戦、植民地支配からの独立、経済格差、テロリズム、金融危機といった問題が次々と浮かび上がった。

とりわけ重要なのは、世界が一つにつながるほど、各国政府だけでは解決できない問題も増えていったことである。経済活動や情報通信は国境を越えて広がったが、それらを管理する法律や政治制度は、依然として国家を中心に組み立てられていた。

Contents
  1. 1. 二度の世界大戦が生んだ「世界を統治する」という課題
  2. 2. 人権という共通理念と、世界を一つにできない現実
  3. 3. 冷戦の壁と、世界連邦という夢の後退
  4. 4. 植民地から独立した国々が、世界秩序に参加する
  5. 5. アメリカ主導の国際秩序と、その制度的な限界
  6. 6. グローバル化の進展と、アメリカの優位を揺さぶる五つの衝撃
  7. 7. 第二の衝撃――インターネットが国家の情報支配を揺さぶる
  8. 8. 第三の衝撃――2008年の金融危機が露呈させた市場の無秩序
  9. 9. 第四の衝撃――アラブの春と、民主化を支える仕組みの不足
  10. 10. 第五の衝撃――東日本大震災と福島第一原発事故が示した技術のリスク
  11. 11. パックス・アメリカーナは衰退したのか
  12. 12. 世界秩序の歴史が突きつける問い

1. 二度の世界大戦が生んだ「世界を統治する」という課題

国際連盟の失敗から国際連合へ

第一次世界大戦は、戦争を一国の問題として扱うことの限界を明らかにした。戦場での被害だけでなく、経済の混乱や社会の分断が国境を越えて広がり、各国が自国の利益だけを追求していては、平和を維持できないことが明らかになったのである。

アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンは、戦後の平和を守る仕組みとして国際連盟の創設を提唱した。国家間の紛争を話し合いや仲裁によって解決し、軍縮を進め、再び大規模な戦争が起こることを防ごうとしたのである。

しかし、国際連盟には大きな弱点があった。加盟国の主権を強く制限することができず、決定を実行させるための十分な権限や強制力も持っていなかった。さらに、提唱国であるアメリカ自身が加盟しなかったことも、組織の影響力を弱める要因となった。

結局、国際連盟は第二次世界大戦を防げなかった。国際協調を掲げるだけでは、侵略を止められない。平和を維持するためには、理念だけでなく、それを実行する政治的な力と制度が必要だったのである。

第二次世界大戦が終わりに近づくと、各国は新しい国際秩序の構築に取り組んだ。1945年4月、サンフランシスコで各国代表が集まり、国際連合憲章の作成が進められた。同年10月24日、国際連合が正式に発足した。

国連憲章の前文には、戦争の惨禍から将来の世代を救うこと、人間の尊厳と基本的人権を尊重すること、大小すべての国の平等を認めること、社会の進歩と生活水準の向上を促進することなどが掲げられた。平和を単に戦闘が起きていない状態として捉えるのではなく、人権や社会的な安定を含む、より広い目標として位置づけたのである。

国際連合は世界政府になれなかった

ただし、国際連合が成立したからといって、世界を統治する政府が生まれたわけではなかった。国連には各国の決定をあらゆる場面で強制できる権限がなく、財政面でも加盟国の分担金に依存していた。国際社会の問題を議論する場はできたものの、重要な決定は依然として大国の利害に左右された。

特に大きな問題となったのが、アメリカとソビエト連邦の対立である。第二次世界大戦では協力した両国も、戦後の世界をどのような政治・経済体制にするかをめぐって激しく対立した。国際連合は世界平和を実現するための組織でありながら、その内部にも大国間の権力闘争を抱え込むことになった。

この矛盾は、安全保障理事会の仕組みにも表れている。大国が協力すれば国連は力を発揮できるが、大国同士が対立すれば、重要な決定は停滞する。世界全体の利益を追求する制度が、強国間の利害調整に左右されるという構造である。

世界政府を求めたアインシュタインの危機感

国際連合の限界を見抜いていた人物の一人が、物理学者アルベルト・アインシュタインだった。彼は、各国が自国の主権を絶対視したままでは、核戦争の危険を十分に抑えられないと考えた。

核兵器は、一国の安全保障の問題にとどまらない。大国同士の判断の誤りや軍拡競争によって、人類全体が破滅する可能性を生み出したからである。アインシュタインは、世界憲法や連邦制に基づく世界政府を構想し、国家の権力を超えて世界法を実行できる仕組みを求めた。

1946年には、核兵器の管理を国際機関に委ねる構想も登場した。アメリカの代表バーナード・バルークは、原子力の開発やウラン資源を国際的な管理の下に置き、各国が核兵器を独自に保有することを防ごうと提案した。しかし、核開発の自由を手放したくないソ連が反対し、この構想は実現しなかった。

ここに戦後世界の根本的なジレンマがある。人類全体の安全を守るには国家の権限を制限する必要がある。しかし、国家は自国の安全と利益を守るために、重要な権限を手放そうとはしない。世界政府という理想と、国家主権を中心とする現実の間には、深い溝が横たわっていた。

2. 人権という共通理念と、世界を一つにできない現実

世界人権宣言が示した新しい基準

第二次世界大戦後の国際秩序を形づくったのは、安全保障の制度だけではない。人間の権利を国境を越えて守るという考え方も、大きく前進した。

ナチス・ドイツによる迫害や虐殺、戦争中に行われた数々の非人道的行為は、国家が自国民や支配地域の住民に対して行うことを、すべて国内問題として扱ってよいのかという疑問を突きつけた。国家が法律や行政を持っていても、それだけで人間の尊厳が守られるとは限らない。むしろ、国家権力そのものが人々を迫害することもある。

1948年12月10日、国際連合総会は世界人権宣言を採択した。宣言は、人間の尊厳と平等な権利を自由・正義・平和の基礎とし、言論や信仰の自由、恐怖や欠乏から解放された生活などを共通の理想として掲げた。

これは、人権を特定の国家の伝統や政治体制だけに属するものとせず、すべての人間に関わる基準として示した点で重要だった。国家が異なっていても、人間の尊厳を守る責任があるという考え方が、国際社会の共通言語になっていったのである。

さらに、ニュルンベルク裁判の経験を通じて、個人が国際法上の犯罪について責任を問われ得るという考え方も強まった。国家の命令に従ったという理由だけで、重大な犯罪の責任を免れることはできない。権力の頂点に立つ者にも責任があるという原則は、国家だけでなく、国家を動かす個人の行為にも国際的な規範を及ぼそうとする試みだった。

理念が広がっても、実行する力は不足していた

一方、世界人権宣言には、すべての国に直ちに同じ義務を強制できる仕組みが備わっていたわけではない。国連が人権の尊重を呼びかけても、各国政府がそれに従わなければ、実際の改善には限界があった。

しかも、冷戦の進展とともに、人権をめぐる考え方も政治的な対立に巻き込まれていく。自由や個人の権利を重視する西側諸国と、社会主義体制を掲げる東側諸国とでは、政治参加や国家の役割について異なる見解が存在した。人権という普遍的な理念を掲げながら、その具体的な意味や優先順位については合意できない状況が生まれたのである。

それでも、世界人権宣言は重要な基準として残った。宣言に強制力が乏しいことと、宣言が歴史的な意味を持たないことは別である。国家の政策や国際的な批判を評価するための共通基準が生まれたこと自体が、戦後の世界秩序の大きな変化だった。

3. 冷戦の壁と、世界連邦という夢の後退

二つの超大国が世界を分断する

第二次世界大戦後、世界はアメリカを中心とする西側陣営と、ソビエト連邦を中心とする東側陣営に分かれていった。両陣営は異なる政治・経済体制を掲げ、軍事同盟を結び、互いの影響力を抑えようとした。

西側には北大西洋条約機構(NATO)が成立し、東側にはワルシャワ条約機構が形成された。ヨーロッパは「鉄のカーテン」によって分断され、世界各地で起きる紛争や独立運動も、しばしば米ソの勢力争いと結びついた。

この対立は、世界政府を求める運動にも大きな打撃を与えた。核兵器の登場は、国家の対立を超える政治制度が必要だという主張を強めたものの、実際には各国が核兵器や軍事力を手放す方向には進まなかった。核兵器を国際的に管理する構想も、米ソ間の不信によって挫折した。

世界連邦を求める運動は、1940年代後半に勢いを見せた。世界憲法の制定や世界議会の設置を目指す提案が相次ぎ、国境を越えた平和を制度として実現しようとする人々が活動した。しかし、冷戦が激化するにつれて、世界政府の支持者は政治的な立場を疑われやすくなり、運動を支える出版物や組織も勢いを失っていった。

各国政府は世界全体を統治する権力を設けるよりも、自国が所属する陣営の安全保障を優先した。人類全体の利益よりも、国家や陣営の利益が前面に出たのである。

世界統合の夢はヨーロッパ統合へ向かう

それでも、国家を超えた統合という考え方が完全に消えたわけではなかった。ヨーロッパでは、長い歴史のなかで繰り返されてきた戦争を終わらせるため、国家間の協力を制度化する動きが進んだ。

ジャン・モネやロベール・シューマンらが推進したのは、まず石炭と鉄鋼という戦争に不可欠な資源を共同管理することだった。1951年に欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が成立し、さらに1957年のローマ条約によって欧州経済共同体(EEC)などの創設が進められた。こうした取り組みは、後の欧州連合(EU)へとつながっていく。

世界政府を一挙に設けることは難しくても、地域内で共通の制度をつくり、経済的な結びつきを深めることなら可能ではないか。ヨーロッパ統合は、世界秩序を変える構想が、より実現可能な地域的協力へと形を変えた例といえる。

1955年には、アインシュタインと哲学者バートランド・ラッセルらが核兵器の危険性を訴え、科学者が人類の未来に責任を持つべきだという主張を展開した。科学技術が人類全体を破滅させる力を持つ時代に、国家の境界を超えた責任をどう築くのかという問題は、冷戦下でも消えなかった。

4. 植民地から独立した国々が、世界秩序に参加する

バンドン会議が示した「南」の声

戦後の世界秩序を変えたもう一つの大きな動きが、アジアやアフリカの植民地からの独立である。ヨーロッパの帝国は第二次世界大戦によって弱体化し、植民地の人々は独立と自己決定を求めるようになった。

1955年4月、インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議が開催された。インドのジャワハルラール・ネルー、エジプトのガマール・アブドゥル・ナーセル、中国の周恩来ら、アジア・アフリカの指導者が集まり、独立国が国際政治のなかで自らの立場を主張する機会となった。

これらの国々が求めたのは、単に植民地支配から解放されることだけではなかった。国際経済のルールを決める場に参加し、経済開発に必要な資金を確保し、貿易や投資の利益をより公平に受け取ることも重要な課題だった。

バンドン会議では、経済開発のための国際的な基金、世界銀行による追加的な資金援助、公正な投資を促進する仕組みなどが求められた。政治的な独立を達成しても、貧困や資金不足が続けば、実質的な自立は難しい。新興独立国は、国際秩序のなかで発言権を得ることと、経済的な発展の機会を確保することを結びつけていたのである。

世界秩序は、欧米だけでは決められなくなる

植民地支配の終焉は、国際社会に参加する国の数を増やした。かつてヨーロッパの列強が大きな影響力を持っていた世界に、アジア・アフリカの独立国が加わり、国際機関での議論も次第に複雑になっていった。

ただし、国連に加盟する国が増えたからといって、実際の権力が均等に分配されたわけではない。安全保障や国際金融の重要な決定は、依然として大国の影響を強く受けた。独立国は国際社会の正式な構成員となっても、資金、技術、市場、軍事力などの面では大国への依存を抱えていた。

ここで見えてくるのは、国家の独立と世界秩序の民主化が、必ずしも同時に進むわけではないという現実である。国旗を掲げ、政府を持ち、国連に加盟することは重要な一歩だが、国際経済のルールを変える力まで自動的に手に入るわけではなかった。

5. アメリカ主導の国際秩序と、その制度的な限界

国際機関が増えても、世界政府にはならない

戦後には、国際連合だけでなく、さまざまな分野で国際協力を担う機関が整備された。国際司法裁判所、ユネスコ、国連食糧農業機関(FAO)などが設立され、航空、郵便、労働、教育、食料といった分野で、各国が共通のルールを設ける取り組みが進んだ。

国際的な制度が整うことは、世界秩序の発展を意味する。航空機が国境を越えて飛び、郵便が世界各地に届き、商品や資金が国際的に流通するには、各国が共通の基準を受け入れる必要があるからだ。

しかし、こうした機関は、世界全体を一つの政府のように統治するものではなかった。多くは加盟国の合意や協力を前提とし、独自の強制力や財源を十分に持っていなかった。世界を動かす制度が増える一方で、それらを一体として調整する中心的な権力は存在しなかったのである。

国際金融と安全保障の中心に立つアメリカ

この制度的な空白を埋めるように、アメリカは戦後の世界秩序の中心的な役割を担った。圧倒的な経済力と軍事力を持ち、国際金融や貿易、科学技術、文化の面でも強い影響力を発揮した。

アメリカの主導力は、軍隊や外交だけから生まれたものではない。ドルを中心とする国際金融、アメリカ企業が展開する事業、英語を通じた学術・技術情報の流通、映画や音楽などの文化産業も、アメリカの影響力を支える重要な要素だった。

この意味で、パックス・アメリカーナは、単にアメリカ軍が世界各地に展開している状態を指すのではない。国際的な取引の仕組み、経済活動の基準、情報や文化の流れが、アメリカの力と深く結びついた秩序でもあった。

ただし、アメリカが世界の中心に立つことは、世界の問題をすべて解決できることを意味しなかった。国際機関を支える制度や資金が不十分であれば、アメリカ自身が主導権を持っていても、地球規模の問題に一貫して対応することは難しい。世界秩序はアメリカの力に支えられると同時に、その力の限界にも左右される構造を持っていた。

6. グローバル化の進展と、アメリカの優位を揺さぶる五つの衝撃

第一の衝撃――2001年9月11日、世界の西洋化は必然ではなくなる

冷戦が終わり、国境を越えた経済活動が拡大すると、世界は自由市場や民主主義を中心とする秩序へ向かうという期待が広がった。貿易や投資が増え、情報が世界中を駆け巡れば、各国は相互に依存するようになり、大規模な戦争も起きにくくなる。そうした見方が強まったのである。

しかし、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロは、世界が一つの方向に進んでいるという楽観論に深刻な疑問を投げかけた。アルカイダによる攻撃は、経済的・文化的なグローバル化が進んでも、政治的・宗教的な対立や、既存の国際秩序に対する反発が消えるわけではないことを示した。

アメリカはアフガニスタンで軍事作戦を展開し、その後、イラク戦争へと進んでいった。テロへの対処という課題は、既存の国際秩序を守るための戦いであると同時に、アメリカが軍事力を用いて世界を再編しようとする動きとも結びついた。

ところが、軍事的な勝利だけで、安定した政治秩序を築けるわけではない。社会の分断、統治の正統性、地域の歴史や宗教への理解など、軍事力だけでは解決しにくい問題が残った。世界の西洋化やアメリカ化は、誰もが受け入れる一本道ではなかったのである。

中国とインドの台頭――世界経済の重心が変わる

同時期に、世界の経済構造にも大きな変化が生まれた。とりわけ中国とインドの台頭は、アメリカを中心とする世界秩序に新しい力学を持ち込んだ。

中国は経済改革と国際市場への参加を通じて急速に成長し、世界経済に占める存在感を高めた。インドも、民主主義体制を維持しながら経済規模を拡大し、国際政治における発言力を強めた。両国は、単に経済的な豊かさを追求するだけでなく、国際的な意思決定においても相応の地位を得ようとした。

これは、世界の権力がただちにアメリカから移ったという意味ではない。しかし、国際秩序の重要な決定を、欧米の大国だけで進めることは次第に難しくなった。人口、産業、生産能力、貿易、資源需要などの面で、新興国が世界の仕組みを左右するようになったからである。

パックス・アメリカーナの変化は、アメリカが突然世界の中心から転落するという形ではなく、アメリカの力が残る一方で、他の大国も自らの利益や価値観を反映させようとする形で進んだ。

7. 第二の衝撃――インターネットが国家の情報支配を揺さぶる

情報の流れは国境を越える

インターネット、検索エンジン、携帯電話、ソーシャルネットワークの普及は、人間同士のつながり方を大きく変えた。情報の発信者と受信者の距離が縮まり、個人や小さな組織でも、世界中に向けて情報を発信できるようになった。

かつて情報の流通は、国家、新聞社、放送局、大企業などの大きな組織に強く依存していた。しかし、デジタル通信の発展によって、個人が国境を越えて情報を共有し、遠く離れた人々と共同体を形成することが容易になった。人々の連帯や文化交流は、国家が設けた境界を越えて広がっていったのである。

これは、国家が国民の情報環境を管理する力にとって、大きな挑戦だった。政府はインターネットや情報コンテンツを統制しようとしたが、情報が国境を越えて複製・拡散される環境では、完全な管理は困難になる。

ネットワークの中心に立つことが新しい権力になる

デジタル時代には、領土や軍事力だけでなく、情報ネットワークの中心に立つことが大きな力を生む。通信基盤、検索エンジン、ソフトウェア、オンラインサービスなどを提供する企業は、人々が何を見つけ、何を共有し、どのように交流するかに影響を与える。

この点で、アメリカは大きな優位を持っていた。多くの主要なインターネット企業や技術企業がアメリカを拠点とし、英語も科学・技術・貿易・外交の重要な言語であり続けた。アメリカの影響力は、軍事力や経済力に加えて、情報が流れる経路そのものを通じても広がったのである。

ただし、ネットワークの発展は、アメリカの価値観を世界中に一方的に広めるだけではなかった。人々はインターネットを使って異なる文化を発見し、混ざり合い、新しい表現や共同体を生み出した。国家や既存の組織が情報を完全に管理することは難しくなり、文化の流れも多方向へと広がっていった。

つまり、デジタル化はアメリカの影響力を強める一方で、その影響力を完全には統制できない世界も生み出した。ネットワークの中心にいることは大きな力になるが、ネットワークそのものが生み出す変化を思いどおりに支配できるわけではない。

8. 第三の衝撃――2008年の金融危機が露呈させた市場の無秩序

市場はグローバル化したが、法と責任は追いつかなかった

2008年に深刻化した世界金融危機は、アメリカの経済的な優位と、グローバル市場への信頼を大きく揺さぶった。金融商品や投資資金が世界中を移動する一方で、金融活動を監督する制度や、危機が起きた際に責任を引き受ける仕組みは、それほど統合されていなかった。

金融市場が国境を越えてつながっていれば、一国で生じた損失が他国の金融機関や企業、家計にも波及する。市場は世界規模で統合されていたが、その市場を監督する法律や政治的な責任は、依然として各国の制度に大きく依存していた。

金融危機は、グローバル化した市場が必ずしも自動的に安定するわけではないことを示した。金融機関が利益を求めてリスクの高い商品を組み立て、それらを世界中に販売すれば、個々の取引が合理的に見えても、システム全体には大きな危険が蓄積される可能性がある。

富が金融部門に集中する一方で、家計や賃金労働者が借金に依存する状況も問題となった。金融の利益は一部に集中しやすいのに対し、危機が発生した際の損失は広い範囲に及ぶ。金融市場の自由化が、社会全体の安定や公平さを自動的に実現するわけではなかったのである。

G20の登場と、国際協調の限界

金融危機への対応では、従来の主要先進国中心の枠組みだけでは不十分となり、中国などの新興国も含むG20の首脳会合が重要性を増した。世界経済を安定させるためには、主要な経済大国が共同で対応する必要があったからである。

ここには、世界秩序の変化がはっきりと表れている。アメリカは依然として金融市場に大きな影響力を持っていたが、世界経済の問題をアメリカ一国で処理することは難しくなっていた。中国をはじめとする新興国を含めなければ、危機管理のための国際協調を成立させにくくなったのである。

しかし、G20のように主要国が集まっても、世界全体の問題が自動的に解決されるわけではない。各国は自国の金融制度や経済政策を守ろうとし、財政赤字、貿易不均衡、金融規制などをめぐって利害が衝突する。貧困、飢餓、人権、民主主義、環境、犯罪経済といった問題も、主要国の経済的な利害調整だけでは解決できない。

金融危機が示したのは、グローバル市場にはグローバルな統治が必要だということだった。しかし、世界経済に影響力を持つ国々が集まっても、共通の利益のために自国の利益をどこまで制限できるかという問題は残り続ける。

9. 第四の衝撃――アラブの春と、民主化を支える仕組みの不足

民主化への要求は国境を越えて広がる

2010年末から2011年にかけて、チュニジアやエジプトをはじめとするアラブ諸国で、長期政権や権威主義的な統治に対する抗議運動が広がった。いわゆる「アラブの春」である。

この動きは、政治的自由や民主的な参加を求める要求が、特定の地域や文明に限定されたものではないことを示した。人々は経済的な豊かさだけでなく、政府に異議を申し立てる自由、支配者を交代させる可能性、自らの生活や将来を決める権利も求めた。

情報通信技術の発達は、抗議運動の情報を広め、人々が互いにつながるうえで重要な役割を果たした。しかし、抗議運動が起きたことと、安定した民主主義体制が成立することは別の問題だった。

チュニジアやエジプトでは政治体制の転換が試みられた一方、バーレーン、アルジェリア、イエメンなどでは反乱が抑え込まれる場面もあった。リビアでは、政権による市民への弾圧をめぐって国連安全保障理事会が対応を決議した。

民主主義は、政権交代だけでは定着しない

民主化を持続させるためには、選挙を実施するだけでなく、法の支配、独立した司法、政治参加の機会、行政の能力、市民の安全などを支える制度が必要になる。独裁者が退陣しても、これらの制度が十分に整っていなければ、政治的な混乱や新たな権威主義が生まれる可能性がある。

国際機関や外国政府が民主化を支援しようとしても、その国の社会が抱える歴史的な対立や政治的な事情を外部から簡単に解決できるわけではない。国際社会が民主主義を理念として掲げることと、各国の民主化を実際に支える能力との間には、依然として隔たりがあった。

アラブの春は、世界が民主主義や人権という共通理念に向かって進んでいるように見える一方、その実現には地域ごとの政治的・社会的条件が深く関わることを示した。世界秩序の統合は、価値観の共有だけでなく、それを実現する制度や能力をどう整えるかという問題でもあった。

10. 第五の衝撃――東日本大震災と福島第一原発事故が示した技術のリスク

技術の恩恵と危険は、同じ規模で広がる

2011年3月11日、日本で巨大地震と津波が発生した。多くの人命が失われ、福島第一原子力発電所では複数の原子炉で炉心溶融などの重大事故が起きた。放射性物質の放出は、地域社会の生活や経済、公衆衛生に長期的な影響を及ぼす問題となった。

原子力発電は、大量の電力を供給できる高度な技術である。しかし、その事故が起きた場合の影響は、発電所の敷地や一つの自治体だけにとどまらない。放射性物質の拡散、避難、食品や環境への影響、エネルギー供給の混乱など、さまざまな領域に波及する。

このような技術のリスクは、国家の境界を越える可能性を持っている。原子力の安全管理は、一国の規制だけで完結する問題ではなく、国際的な情報共有、事故対応、技術基準、危機管理の協力を必要とする。

世界規模の技術管理という課題

高度な科学技術は、人間の生活を豊かにする一方で、事故や誤用が起きた際の被害も大きくする。核兵器、原子力、通信技術、金融システムなど、現代社会の重要な仕組みには、一国だけでは管理しきれない危険が組み込まれている。

ここで重要なのは、技術が発展すれば社会も自動的に安全になるわけではないという点である。技術の性能を高めるだけでなく、事故の可能性を評価し、責任の所在を明確にし、危機が起きたときに国境を越えて対応する制度を整える必要がある。

東日本大震災と福島第一原発事故は、技術の高度化と世界の相互依存が進んだ時代に、リスクを管理する政治的・制度的な能力が不可欠であることを示した。

11. パックス・アメリカーナは衰退したのか

アメリカの力が消えたのではなく、世界の構造が変わった

ここまでの歴史を振り返ると、パックス・アメリカーナの変化を、アメリカの単純な衰退として理解することはできない。アメリカは軍事力、金融、科学技術、情報通信、文化などの分野で大きな影響力を保ち続けた。一方で、中国やインドなどの台頭によって、世界経済における力の配分は変わり、情報通信の発達によって国家が社会を管理する方法も変化した。

さらに、金融危機やテロリズム、民主化運動、技術災害などの問題は、アメリカの軍事力や経済力だけでは解決できない。世界の中心にいることと、世界を完全に統治できることは違うのである。

アメリカの影響力は、世界に共通の制度やルールを広げる力として働く一方で、その制度の限界を明らかにする要因にもなった。世界市場がアメリカの金融システムと深く結びついていたからこそ、アメリカ発の金融危機は世界全体に波及した。情報ネットワークの多くがアメリカ企業によって支えられていたからこそ、アメリカは新しい影響力を得たが、同時に国家による情報管理が難しくなるという変化にも直面した。

つまり、パックス・アメリカーナの「衰退」とは、アメリカがただちに世界の中心から消えることではなく、アメリカの力だけでは世界秩序を維持できないことが明らかになっていく過程だった。

G8からG20へ――多国間協調の拡大と限界

金融危機後、世界経済の管理ではG20のような枠組みが重要性を増した。従来の主要先進国だけでなく、新興国も含めて議論しなければ、世界経済の安定を実現することが難しくなったためである。

しかし、参加国が増えれば、必ずしも合意が容易になるわけではない。各国はそれぞれ異なる経済構造、政治制度、社会的な優先順位を持っている。大国同士の協力が必要である一方、各国が自国の利益を守ろうとするため、世界全体にとって必要な改革が進まないこともある。

国際機関の数や参加国が増えることと、世界全体を統治する能力が高まることは、同じではない。制度が整っても、財源が乏しく、実行力が不足し、加盟国が合意したことを実施しなければ、世界規模の課題に対応することは難しい。

12. 世界秩序の歴史が突きつける問い

パックス・アメリカーナの拡大と変化を通じて浮かび上がるのは、世界が相互に依存するようになったにもかかわらず、人類全体の利益を代表し、世界規模の問題に責任を持つ政治的な仕組みが十分に存在しないという矛盾である。

国際連合は戦争を防ぎ、人権を守るための共通の理念を掲げてきた。国際金融機関や専門機関は、貿易、金融、教育、食料、技術などの分野で協力の仕組みを築いてきた。通信技術は、人々が国境を越えて情報を共有し、連帯する可能性を広げた。こうした進歩は、世界秩序が単に大国の軍事力だけで決まるものではなくなったことを示している。

しかし、地球規模の問題に対処するための制度は、依然として国家の意思や利害に左右される。人権や民主主義を掲げても、その実現を確実に保証できるとは限らない。市場が世界規模で統合されても、危機を防ぐための法や監督の仕組みが同じ速度で整うわけではない。技術が世界をつないでも、その危険を共同で管理する制度が十分に育つとは限らない。

ここで問われているのは、アメリカに代わって次の覇権国が登場するかどうかだけではない。中国やインドなどの新興国が影響力を強めたとしても、それだけで世界全体の利益が守られるわけではないからだ。重要なのは、力を持つ国々が、どこまで自国の利益を超えた責任を引き受けられるかという問題である。

世界秩序の歴史は、帝国や大国が中心となる時代から、国家間の制度的な協力が広がる時代へと進んできた。しかし、国境を越える問題の規模が拡大するほど、国家を中心とする政治制度だけでは対応しきれない領域も広がっている。

パックス・アメリカーナの歴史が残した最大の教訓は、強大な国が存在することだけでは、持続的な世界平和は保証されないということだろう。世界を支えるには、軍事力や経済力だけでなく、共通のルール、それを実行する制度、そして自国の利益だけでは測れない人類全体への責任が必要になる。世界が一つにつながった時代に、そのつながりをどのような秩序で支えるのか――それこそが、現代にも続く課題なのである。